ボールを蹴る音。追いかける声。喧騒。風の音。生活音。
それら全てが遠くに聞こえる。
静かな場所が、好きだった。
特に、ひとつの部屋で共同生活を強いられるこの小さな世界の中では。
まだチャイムが鳴るまで余裕がある。
読みかけの本からふっと顔を上げた蓮は、時計を確認してそう思った。
だが次の授業は生憎移動教室で、そろそろ戻らないと危ないかもしれない。たとえ何が理由であれ、遅刻は嫌いだ。
そう思い、ゆっくりと立ち上がったその時。
―――ガラガラ、ぴしゃん。
扉が開き、閉まる音。誰かが駆け込んでくる気配。
ちょうど入口から死角になっていた資料棚の裏側、蓮は小さく舌打ちをした。自分しか知らない穴場だったのに。
しかし一体誰が、何用なのだろうか。
こんな普段は使われていないような資料室に。
そう思いながら、そっと様子を伺ってみる。
心臓が止まるかと思った。
だって、そこにいたのは、
ガタン
「…!」
不意にばさりと足元の資料が崩れ、相手ががばっと此方を見上げた。
己の注意力の無さに歯噛みするももう遅い。
見覚えのある面影とかち合う。
その時、再び衝撃が蓮を襲った。
何故なら、
「…、」
彼女の目が、真っ赤だったから。
嗚呼、どうして。
誰かが泣くのは、苦手だった。
特に女が泣くのを見るのは、だめだ。
どうしたらいいのかわからない。
それに今回は、
相手が悪かった。
「…ッ…」
彼女――はひくりと喉をひきつらせると、再びうずくまって腕に顔を埋めた。
蓮は何もいえない。
ぴくりとも動かない。
否、動けない。
かける言葉が、見つからない。
どうすればいいのだろう。
どうすれば。
「……っ…ごめ、ん、ね」
その時、彼女の方から口を開いた。
消え入りそうな声で。
途切れ途切れに。
「…ごめん、蓮くんがここにいたの、しらなく、てっ……ごめん、ごめんね……でも、」
すこしだけ、ここにいさせて
嗚咽混じりに、は言った。
その懇願するような響きに、蓮は更に何も言えなくなる。
一体彼女に何があったのか
どうして泣いているのか
それだけがぐるぐると頭の中で回る。
ふと彼女の手元を見てみれば、携帯電話が握り締められていた。
…だけど、そこにいつもあった物が、なくて。
『…えへへ、もらったんだー』
そう頬を上気させて、そのストラップをまるで宝物のように扱う彼女が、もう遠い過去のよう。
「……すきな、ひとっ…できたんだ、って…」
「!」
「だから、もう…あ、あた、し、と…一緒に、いられ、ないんだっ、て…」
瞬時に疑問が融解する。
思わず、ぐっと蓮は拳を握り締めた。
脳裏に浮かんだのは、クラスメイトの顔。
ああ、どうして。
どうして。
おまえは、望んだものを、手に入れていたくせに。
こんな時にかけられる言葉を知らない自分が、恨めしい。
慰め方を知らない自分が、悔しい。
「…」
蓮は、ひとつ、大きなため息をつくと。
握っていた拳を解いて、
ぐしゃぐしゃと、その小さな頭を撫でてやった。
彼女の嗚咽が大きくなる。
小さな小さな、「…ありがとう」の声と一緒に。
胸に沸き上がる感情に、蓮は唇を噛み締めた。
彼女を捨てた彼に対する怒りと、
もう彼女が誰のものでもなくなったことへの、微かなかすかな、
…俺は、最低な人間だ。
真冬の陽炎
(とどかない花に焦がれる)